グルとは何か

インドでは「グル」という言葉がさまざまな文脈で使われます。ヨーガ哲学の最も重要なテキストであり、ヨギーたちの聖典とも言えるパタンジャリの『ヨーガ・スートラ』には、神は最も古代の存在、最初の者たちのグルであると記されています。今日では、何かを教えてくれる人は誰でも「グルジー」と呼ばれたりします。今では、あらゆる種類の「グル」が登場しています。足の指に鼻がつく人なら、自分を偉大なグル、偉大な教師として宣伝するのです。では、何かグルとしての資格認定のようなものがあるのでしょうか?大学の学位を持つことですか?または試験を受けることですか?それとも「グル協会」の有料会員になることですか?一体、グルとは何なのでしょうか?どうすれば人はグルになれるのでしょう?ビートルズが、マハリシ・マヘーシュ・ヨギーに失望したとき、彼らはこう言いました。「インドでは、人がグルになる過程は、西洋で人気のロックバンドになる過程と同じだ。ただファンを増やすだけなんだ。」

では、グルとは何なのでしょうか?また、真のグルであるための条件とは何でしょう?この問いについて語り始めるのはとても難しいことです。というのも、「グル」という言葉はあまりに多くの場面で使われるからです。時には、ただの敬意を示す表現である場合もあります。私が生まれ育った伝統や文化では、「母は最初のグルであり、父は二番目のグル、教師は三番目のグル、そして精神的な師が四番目のグルである」と教えられます。また、『マヌ法典』というインドの古代法律書にはこうあります。「一人のグルは十人の有料教師に等しい。百人のグルは一人の父に等しく、百人の父は一人の母に等しい。」つまり、知恵を授かる存在はすべて「グル」なのです。インドの歴史には、偉大な女性の導師や聖者たちも存在します。

サンスクリットで「学校」はグルクラと言います。これは「グルの家族」という意味です。子どもたちは、教育を受けるためにグルの家に送り出され、文明社会から離れた森の中にある庵で暮らしました。そうした場所は特別に守られ、神聖な区域とされました。それらはアシュラムと呼ばれる場所で、非常に神聖とされていたため、王ですら慎ましい服を着て入らねばならず、王権の象徴を身につけて入ることは許されませんでした。警官はバッジを外さなければならず、権力を持ち込むことはできませんでした。動物同士の殺し合いすら許されず、狩人も侵入者も禁止されていました。そこは、深い霊的な心構えを持つ者のみが入ることのできる場所だったのです。税金もかかりませんでした。こうしたアシュラムの一部は、やがて大きな大学へと発展しました。たとえば紀元前4世紀のタクシャシラー大学は、2万人の学生を擁しており、彼らの費用は国家によってまかなわれていました。それでも国家が教育方針に口出しすることは一切ありませんでした。私が育った文明のモットーをひとつ挙げるとすれば、それは「知識こそすべて」でしょう。

「Vidyāyām amṛitam aśnute(ヴィッディヤーヤーム・アムリタム・アシュヌテ)ー 英知によって、不死に至る。」

政治的権力や経済的権力などは取るに足らないものです。もちろん、それらが無用だというわけではありません。しかし、インドで最も高いカーストとされるブラフミン(僧侶階級)は、最も貧しい人々でもありました。彼らが最も高いカーストとされたのは、知識と伝統を担っていたからです。その文脈において、教師という存在にどれほどの敬意が払われていたかが理解できるでしょう。ブラフミンたちは、捧げ物によって生計を立てていました。彼らの知識は無料でした。ただし、彼らが存在していた社会の仕組みは、今ではほとんど残っていません。現代のインドに降り立ったとしても、それを目にすることはまずないでしょう。けれども、わずかに残るその伝統の名残が、古代からの継続性を証明しているのです。

彼らは自らを惜しみなく捧げました。学生は授業料を払う必要がありませんでした。現代の視点では「都合がいい」と思われるかもしれません。しかし、学生は何をしたのでしょうか?心と魂を捧げたのです。だからこそ、その知識・英知を授かるにふさわしかったのです。グルは、どんな試練を与えてもよかったのです。それは金銭的な取り決めではなく、精神的的な取り決めでした。なぜなら、知識そのものは金銭的な価値に換算できないからです。価格というものが存在しないのです。現代の一部地域(たとえばアメリカ)で見られる実態とは矛盾しているように聞こえるかもしれません。しかし、生活必需品の提供と、知恵の伝授とは、完全に別の話です。それらは混同してはなりません。知識をお金で量ることなど、不可能なのです。

子どもはグルのアシュラムへ行き、我が子のように扱われて生活しました。王子も貧者の子も、皆がともに禁欲生活を送り、およそ24歳まで学び続けました。学びの期間は、禁欲と平等の期間だったのです。そして、王子は国を治める者へ、ブラフミンは教える者へ、商人の子は家業を継ぐ者へとそれぞれの道へ進みますが、その時期に培われた価値観は、人生を通して根づいたままとなったのです。

さて、「グル」を2つの異なるレベルで捉えることができます。ひとつは「情報を与える存在」としてのグル。ここでは経済学や物理学の勉強を意味しているわけではありませんが、古代インドでは、ヨーガの科学を発展させたのと同じ人々が、他のすべての科学分野も発展させました。彼らが記した政治学のテキストも、必ず形而上学から議論を始めています。なぜ社会は政治的安定を保つべきなのか?なぜ人々は経済的保障を持つべきなのか?なぜ国を、政府を運営するのか?この伝統における答えは明快です。それは、人々が瞑想する環境を得て、自己実現へと進めるようにするためです。誰かが他人のカルマに干渉することなく、それぞれの道を進めるようにするためです。商人は、学生や求道者を支えるために財を得るべきです。アシュラムに施し、村に井戸を掘るために富を使うべきです。自分のためだけに稼ぐ者は、罪だけを積むことになります。それが、社会全体の価値の問題なのです。

すべての物質的な設備は、ただひとつの目的のために提供されるのです。求道者が妨げられることなく探求の道を歩むために。そして、人は自分のカルマ、今与えられている義務を、今この人生のある段階で、可能な限り完全に果たすべきです。そして、それを他者の利益のために用いるべきです。そうしてこそ、森の中にある広大な教育機関、アシュラムにおいて教える者・学ぶ者たちはその生活を継続できるのです。社会には、そうした内なる探求を支える仕組みが必要なのです。もし、その目的を越えて何かを「自分のものだ」と主張するならば、その人は盗人です。 

〜 スワミ・ヴェーダ・バーラティ(2017年6月5日)

原文(英語)はこちらをお読みください。

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